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  • ryee62

Issue 176 - ゲノム編集技術の光と影

今回のSeattle Watchでは、ゲノム編集技術について見ていきたいと思います。10年ほど前から注目を集めているCRISPR-Cas9は更なる進化を遂げており、医療のみならず農業や気候変動など幅広い産業での活用が期待されています。しかし、この技術には計り知れないリスクもあり慎重な姿勢も求められています。

 

「21世紀最大の科学の躍進」や「神の技術」と評されることもあるゲノム編集技術ですが、注目が集まるきっかけとなったのが2012年に登場したCRISPR-Cas9です。CRISPR-Cas9は、細菌が持つ免疫システムをベースにしたゲノム編集技術で、ターゲットとなるDNA鎖を切り取ることで、切断した部分のDNAの働きを失わせることを得意としています。この技術は簡単に遺伝子を操作できる点が特徴で、開発者のエマニュエル・シャルパンティエ氏とジェニファー・ダウドナ氏は2020年にノーベル化学賞を受賞しています。そして、2017年には「CRISPR 2.0」と呼ばれる新しいゲノム編集技術が登場し、一塩基編集技術とも呼ばれる技術を採用、特定のDNAの塩基を別のものに置き換えるというアプローチが使われています。この技術はDNA鎖を切断しないため、CRISPR-Cas9の欠点でもあったエラーや意図せぬ作用(オフターゲット効果)を最小限に抑えることができます。 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20201020_e01/


2019年に入ると「CRISPR3.0」と位置付けられるプライム編集という手法が考案されました。この技術はシンプルにパーツを書き換えるように、遺伝コードを迅速かつ正確に編集できることが特徴で、遺伝子編集の幅が広がることが期待されています。開発者であるデイヴィッド・リウ氏(ハーバード大学の生物学者)は、「CRISPR-Cas9がハサミ、一塩基編集技術が鉛筆だとすれば、プライム編集はワープロのようなものである。標的となるDNA文字列を検索し、編集済みのDNA文字列に正確に置き換えることができる。」と述べています。 https://gizmodo.com/scientists-debut-precise-new-gene-editing-technique-tha-1839226383  


科学技術誌のMIT Technology Reviewは、2023年にブレイクする10の技術分野の1つにこれらのゲノム編集技術を挙げています。また、民間調査会社のGrand View Researchによると、世界のゲノム編集市場は、2021年から2028年にかけて年平均22.9%で拡大し、2028年までに194億ドルに達すると予測されています。ゲノム編集はウイルス感染病との闘いでも活用され始めており、COVID-19の流行対策にも大きな役割を担っていることも市場拡大の要因となっています。この技術は幅広い分野でさまざまな目的のために活用され始めており、商用化に向けた動きも進んでいます。今回は、各分野で注目されている研究や実験を紹介していきたいと思います。 https://www.technologyreview.com/2023/01/09/1064857/crispr-high-cholesterol-10-breakthrough-technologies-2023/  


ゲノム編集技術は、第一に医療に革命をもたらすとして注目されています。最近では、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のがん専門医であるAntoni Ribas氏らは、標的とするがん細胞を攻撃するようにDNA配列を改変した免疫細胞(T細胞)を作成することに成功しており、個別化がん免疫療法の分野での貢献が期待されています。また、2022年7月には遺伝子編集療法を開発するVerve Therapeuticsが、CRISPRを利用してPCSK9というタンパク質をコードする遺伝子を改変し、コレステロール値を恒久的に低下させる治療法の試験を開始しています。この療法は、心臓発作の予防になるとして注目されています。米国では毎年約100万人が心臓発作を起こし、そのうち12万人が死亡しています。他にも、遺伝子編集療法の分野では、Beam Therapeutics、Vertex Therapeutics、Intellia Therapeuticsといった企業が注目を集めています。 https://www.carenet.com/news/general/hdn/55470


農業や水産業の分野もCRISPRの恩恵を受け始めており、生産性の向上や水や飼料のコスト削減に貢献しています。米国アラバマ州のオーバーン大学で水産学を研究するレックス・ダナム教授らは、遺伝子編集によってワニの遺伝子を組み込んだナマズを開発しています。この研究では、ワニの遺伝子を組み込むことでナマズの病気への抵抗力を高めることに成功しており、養殖での魚の死亡率を下げることで廃棄量を減らせる可能性があると期待されています。京都のスタートアップ企業であるリージョナルフィッシュは、ナノジーン育種(欠失型ゲノム編集と呼ばれるCRISPR-Cas9を用いたゲノム編集技術)によって、可食部を1.2倍にして、さらに飼料の量を2割削減できる新品種のマダイ(22世紀鯛)を開発し、既に販売を開始しています。同社は第二弾として、成長性が1.9倍で飼料を4割程度削減できるトラフグ(22世紀ふぐ)も提供しています。また、米国マサチューセッツ州のスタートアップInari Agricultureは、SEEDesignと呼ばれるゲノム編集ツールを開発しています。同社はこのツールによって、水の使用量を40%削減し、収穫量を20%も増加させられる大豆やトウモロコシの品種の開発に成功しています。 https://www.technologyreview.com/2023/01/19/1067092/crispr-alligator-gene-catfish/


ゲノム編集技術によって農作物の栄養価を高める取り組みも本格化しています。既に日本では筑波大学とサナテックシードがCRISPRを用いて開発した高濃度のGABA(人の血圧上昇を抑える働きをもつ)を含むトマトが一般販売されています。また、英国のジョン・イネス・センターのCathie Martin教授らは、ゲノム編集技術によって、ビタミンDの前駆体であるプロビタミンD3を豊富に含んだトマトを作り出しています。ビタミンDを含む食品は限られており、世界に10億人いると推定されているビタミンD欠乏症の人が抱える癌、パーキンソン病、認知症などの発症リスクの上昇を防ぐことにつながる可能性があります。 https://www.nature.com/articles/s41477-022-01154-6  


興味深いことに、ゲノム編集技術によって気候変動を防ごうとする取り組みも始まっています。前述のジェニファー・ダウドナ氏は、CRISPRによって温室効果ガスの原因となる水田などの土壌や家畜の腸に生息する微生物を編集したり、微生物集団の構成を変えたりすることで、温室効果ガスの削減を目指す動きも起きていると述べています。また、植物や土壌の微生物が吸収した炭素を長期間にわたって土壌に蓄えられるように植物や微生物の能力を強化する研究も進んでいます。 https://wired.jp/article/vol47-the-world-in-2023-jennifer-doudna-genetech-becomes-greentech/  


このように、ゲノム編集技術は私たちの生活や地球環境の改善に貢献する可能性がある一方で、どこまでこの技術を利用して良いのかという倫理的な問題も出てきています。例えば、遺伝子ドライブと呼ばれる特定の遺伝子変異が個体群全体に急速に広まる現象を人為的に引き起こすことで、伝染病の根絶や絶滅危惧種の保護を進めるという研究が進められています。具体的には、マラリアやデング熱などを媒介する蚊の形質を変えることで蚊を不妊にし、ヒトへの感染を防ぐといったものや、ネズミなど外来種の駆除に遺伝子ドライブを使うことで、絶滅の危機にある固有種の保存に活用する動きがあります。しかし、これらの取り組みは、ある生物種の遺伝構成を不可逆的に改変し、絶滅させる可能性もあるため、倫理上の利用の是非が問われています。 https://www.technologyreview.jp/nl/scientists-just-showed-how-to-drive-malaria-mosquitoes-to-extinction/


Netflixが2019年に公開した「不自然淘汰:ゲノム編集がもたらす未来」というドキュメンタリーでは、CRISPRなどのゲノム編集技術の概要を、バイオテック企業だけでなく、自宅で働く科学者やバイオハッカーの視点から紹介しています。このドキュメンタリーのタイトルにもある不自然淘汰(Unnatural Selection)は、人類はこれまで変えることができなかった運命を人為的に変えられるようになることを意味しています。もし、教育や治療という形で、これから生まれてくる子どもの身体機能や知的能力を高めることができるようになったとき、この不自然淘汰は、ゲノム編集技術にアクセスできる人とそうでない人の間の格差を広げる懸念があります。また、身長や肌の色、運動能力、知能面など、遺伝子がもたらす人間の多様性が損なわれた場合、新しい疾病やウイルスに直面した際に人間の生存率が下がる可能性も出てきます。 https://www.netflix.com/jp-en/title/80208910?source=35


さらに、体質や罹患リスクなどが分かってしまう遺伝子情報は、究極の個人情報であり、遺伝子が要因となった差別につながる可能性もあります。米国では2008年に医療保険と雇用を対象とした遺伝情報差別禁止法(GINA)が制定されるなど、遺伝子情報による差別や偏見、社会的不利益が生じるリスクを懸念して、世界中で法整備が進んでいます。しかし、日本ではこのような法律は制定されておらず、後れを取っています。 https://dot.asahi.com/aera/2022070600018.html?page=1


テクノロジーの加速度的発展によるブレイクスルーこそが行き詰った資本主義をより高度なものに転換させ、現状を打破するという左派加速主義が、最近では影響力の大きい思想の一派になっています。ゲノム編集などの生命科学分野における加速主義は、生の有限性を認めずに無限の追求を行うことでもあり、哲学的な議論が求められています。これまでテクノロジーは人々の生活を豊かにしてきましたが、生命そのものを変える不自然淘汰がもたらすリスクは計り知れず、私たちはこの技術とどう向き合うべきかをより真剣に議論する必要があるように感じます。


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